1989年の開設以来多くの受講生を迎え、労山の8000m峰登山を担う人材や、地方連盟での海外登山を中心的に担う人材を輩出してきた「高所登山学校」で、受講生の初めての死亡事故という事態を重く受け止め、事故調査委員会を設置した。
海外委員会外からは、斉藤副理事長(技術教育担当)、井芹副理事長(遭難対策担当)の両名も参加して2回にわたり事故原因の調査を行った。
第1回 事故調査委員会 2003年4月23日(出席 斉藤、近藤、坂本、香取)
第2回 事故調査委員会 2003年5月9日(出席 斉藤、井芹、近藤、香取)
1、事故の直接原因
2003年1月5日、イムジャツェ(アイランドピーク・6160m)登頂後、下降時に懸垂開始地点で待機していた受講生のS氏が、待ちきれなくなり自己ビレイを外し下を覗き込んだ際に発生した突風により固定ロープ沿いに約30m転落し、頭部打撲により死亡した。
2、調査の観点
今回の事故の直接原因は、突風に飛ばされての転落であるが、それ以外にも間接的な原因として考えられる以下三点の視点から、事故原因についての調査を行った。
(1)転落に高度障害の影響は無かったか。
高所登山において下山中の転滑落事故は多いが、その中にはかなりの割合で高度障害で意識が朦朧としていたり、足がふらついて滑落するケースも多いと思われる。今回の登山における高所順応は適切だったか、当日S氏に高度障害は出ていなかったのかといった点について検証した。
イムジャツェの標高は6160m、ベースキャンプは5100m、ハイキャンプ(C1)は5700mである。
登山学校隊は2002年12月22日にネパール入りした後、2003年1月3日にBC入りするまでに12月30日アウイピーク(5245m)、1月1日にカラパタール(5545m)、1月2日にコンマ峠(5535m)に登り、3回にわたって5000mラインの順応を行った。何れの行動時もS氏は元気であり、登行時間も早かったとのことであり、順応はうまくいっていた。BC入りした後も、1月4日のC1(5700m)、1月5日の登頂後の登行速度や意識にも高度障害の兆候は出ていないと考えられる。
高所順応はセオリー通りに行われており、本人も高度の影響は受けていなかったと思われる。
(2)障害を持った受講生に対する安全対策は十分だったか。
受講生のS氏は聾唖者であり、聞くことと話す事に障害があった。これに対して講師は障害者が登山に参加する場合、通常のメンバーにプラスして現地ガイドかインストラクターを1名増員することで対処していたという。
今回の場合は、日本語筆記の出来るティカ(高所ポーター)を加えた。山行中はS氏を間に挟んで、前にティカ、S氏、講師という順で行動した。氷河等での行動もこの順番で、ロープを使用して行われた。しかし、聾唖者固有の障害に対してどのようにコミニュケーションを取っていくのか、とりわけ危険が迫った場合や、本人が危険な行動を取ろうとしている際に、どう伝えていくのかといった細かい打ち合わせについては不十分であった。実際のコミュニケーションについては、ジェスチャーや筆談で行った。S氏が2000年に行われたK2支援トレッキングに参加しており、講師とは顔見知りの間柄ということもあり、受け入れについて安易に考えてしまった面もあ る。障害のある労山会員も、出来る限り高所登山学校の受講生として迎え入れていくことは原則だが、同時に固有の障害に対してどのような対処をしてゆくのか、とりわけ生命に関わる状況への対処についての専門的知識と技術を研究し深めてゆく事は主催者としての当然の責務としなければならなかった。
(3)受講生の登山技術、登山経験は十分なレベルだったか。
S氏は聾唖という障害はあったが、登山は34年間継続して行っている。またその登山内容も積雪期の剣岳や西穂高岳を始めとして残雪期、無雪期を通じて豊富である。縦走、ピークハントだけではなく、岩登りや沢登りの経験もあり、山行リーダーも数多く引き受け、現在の所属会の会長として山岳会の指導も行っている。
海外登山もキリマンジャロ(5985m)をはじめ、モンブラン(4807m)、マッターホルン(4478m)、ユングフラウ(4158m)の単独登攀をおこない、2001年にもドロミテで岩登りを行う等、登山技術も充分身につけていた。
だがS氏の登山行動には、危険に対する防衛意識が比較的弱いという面もあったという。この弱点が今回の登山では、最悪の形で現れてしまったとも言える。
ただこの弱点がS氏の障害と関係あるのか、単に個人の性格に寄るものであるのかは我々には判断できない。
しかし高所登山の初心者を受け入れ、育てようという登山学校である以上、こうした受講生の弱点コントロールを含めて、講師は責任を持たなければならないことも事実である。
3、結論
今回の高所登山学校事故に対して、不充分ながら間接原因と絡めて3つの観点から調査を行った。ヒマラヤという過酷な環境の中では、判断ミスが今回の死亡事故のような重大な結果を招くという事を、受講生、とりわけ講師にあっては改めて自戒しなければならない。
また同時に、この高所登山学校が日本勤労者山岳連盟主催の中央登山学校であり、その引率型登山での受講生の死亡事故という社会的責任は重い。
この事実を重く受け止めるとともに、死亡事故の原因追究に努め、今後二度とこのような重大事故を起こさない為の努力を積み重ねていかなければならないと考える。
4、今後の対策
(1)受講生の選考を複数の目で判断
現在の募集要項にも受講生の応募条件は記載しているが、あくまで自主申告であった。
今後は所属会の責任者や、登山学校講師、海外委員等複数の目で受講生の参加が妥当であるかの判断を行っていく。
(2)登山基礎技術の確認を徹底
小さなミスの積み重ねが大きな事故につながる。高所登山学校の全過程において、講師は受講生の基礎登山技術についての確認を行っていく必要がある。また受講生は講師のチェック、指示を受け入れるよう事前の確認を徹底する。
(3)登山実施前の事前講習、トレーニング
海外登山は、国内山行より長期に厳しい自然条件の中での登山を行う。高度の影響や氷河の登行、クレバスの存在等日本の登山にはない危険も多い。事故の可能性や死亡事故率についても事前に周知して臨む必要がある。また受講生の技術レベルや性格等を知るには国内でのトレーニングも欠かせない要素である。
これまで蓄積してきた高所登山についてのセオリーやノウハウについても体系化すると共に事前学習の対象としていきたい。
(4)障害をもった受講生受け入れ準備の徹底
原則的には障害者である受講生も希望があれば受け入れていきたい。但し過酷な自然の中での登山であるため、当該者の固有の障害の特徴や受け入れ体制、危険への対処の仕方等の準備を徹底する。
(5)家族同意の徹底
これまでも受講生家族の「同意書」の提出は義務づけられてはきたが、前項内容周知し
た上での同意を得る工夫を図る。
(6)海外登山事故の分析
これは今後の課題となるが、これまで実施されてきた高所登山学校、あるいは海外登山全般の事故分析、ヒヤリ・ハッと経験の集積を図る中で、事故防止につながる知識を集約していく。現在労山内に於ける海外登山事故についてのデータ集約は行っているが、これの詳しい分析やそれに基づいた対策を立てるところまでは至っていない。長期的な課題となるが、これを行うとともにWEB上での公開も視野に入れて行きたい。
現在の日本の経済情勢や社会的状況もあり、1989年以来継続し、延べ160名を数える受講生を迎えて海外登山の夢を育んできた高所登山学校も、最近は受講生の応募が激減している。正直なところ、集団で海外登山のノウハウを学ぶという「学校」的遠征が成立しなくなっているのも事実である。だが今回の受講生の死亡事故という事態を深く受け止め安全に留意しつつ高所登山学校を継続していきたい。
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