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山行活動部 / 海外委員会
K2再敗退と遭難救助
日本勤労者山岳連盟K2/G2登山隊2002レポート


《隊構成》
隊長…近藤和美(60・峰凌倶楽部)
登攀隊長…倉橋秀都(42・墨田山の会)
隊員…池田壮彦(55・佐久山の会)、矢野利明(49・洛中労山)、
   清野嘉樹(40・弘前労山)、川原庸照(29・岡山労山)

 2002年夏、労山全国連盟登山隊は敗退した2000年の雪辱を期して世界第2の高峰K2(8611m)と、
合わせて許可を取得したガッシャーブルム2峰(8035m)の2座登頂を目指した。しかしK2は、
かつてないほどの持続的な悪天候に妨げられて7月17日に南東稜の肩(ショルダー・7900m)に最終キャン
プを建設したのを最高到達点として敗退。その後G2に転進を図ったが、G1登頂後に1隊員が行動不能に
陥った日本ヒマラヤ協会(HAJ)隊からの救助要請を受けたので、登山を取り止めて救助活動に切り替え
た。
その結果、事故者を救出できたのは幸いだったが、2座とも登頂は逸することとなった。

《行 動 日 誌》
  5/11  近藤、池田、清野の先発3人が出国。準備活動のため先ずネパールへ。
  15〜16  印パ関係の悪化からパキスタンへの最短空路が運航停止となっており、先発隊はダッカ、
     カラチ経由で2日がかりでイスラマバードに移動。
  17  後発3人は成田から直航便でイスラマバードに到着し、先発隊と合流。
  22  空路スカルドへ。
  24  ジープでアスコーレへ。
  25  キャラバン開始。デュモルド川は角材2本の仮橋が架けられていて徒渉の必要はなかった
   (通行料はポーターを含めて1人10ルピー)。ジョラまで。
  26  パイユへ。翌日は慣例どおり停滞。
  28〜30  バルトロ氷河上の歩行となり、ウルドカス、ゴロ(ゴレ)2、コンコルディアと進む。
    この時期、ゴロ2から奥は残雪が多くなる。
  31  ゴドウィン・オースティン氷河に入る。ブロード・ピークBCを過ぎて、サボイア氷河を左に分け、
   右に折れるゴ氷河本流に入って右岸寄りのモレーン上をしばし進むとK2BC(5100m)で、我が隊
   が一番乗りとなった。

6/3 登山活動開始。氷河を上流へ向かう。セラック帯に入り、右岸ゴーロ帯への抜け口を目指す
   (氷河上に約50本の旗竿を設置したが、期間中クレバスの発達が著しく、登山終盤にはルートの採り
   方が難しくなった)。
   ゴーロ帯の踏み跡をたどると目指す南東稜の基部に至り、そこが中継キャンプ(RC/ABC・
   5300m)地である。RCから南東稜末端岩稜右側の雪壁左端を登る。次第に傾斜強まり、雪壁が
   ロート状に狭まる所まで往復後、BCに帰る。この日同ルートを目指すチベット登山協会
   (TMA)隊(形式的にはパキスタン山岳会との合同隊という形をとっていた)が入山。
 4 前日の到達点から固定ロープ設置を開始。雪壁を200mでインゼル状の露岩に達し、以後は心持ち
   左寄りに雪壁を登って岩稜添いに固定ロープを延ばす。平均傾斜45度、時々岩層帯が現れる。
    5900m付近までロープ固定後、この日はRC泊。
  5  C1(6100m)に到達。C1は急峻なな南東稜がわずかに傾斜を緩める所で、整地すれば数張りの
   幕営が可能。整地後、BCへ。この日以後、活動は概ね2班に分かれて行なったが、煩雑になるので
   以下は主に先端(倉橋、清野の2人は不動で、これに序盤は池田が加わり、中盤以後は矢野が交代。
   さらに川原が加わって4人体制を組んだ時期もあった)の行動を記す。
  8 C1に荷揚げ往復。
  9  C1に上がる。
  10  C1以上は地吹雪で停滞となるが、TMA隊が上がってきた。
  11  TMA隊と合同でC2へのルート工作に出る。C1まで以上に急なミックス帯が続く。初めは雪壁
      主体の登攀だが、途中から岩稜、岩壁が優勢になる。C2までの中間点を過ぎると短いが垂壁も現
      れ、そこを過ぎるとテント1張り分の整地跡があり、間もなく南東稜の核心部の一つ、ハウスの
      チムニーとなる。TMA隊は8000m峰14座全山登頂を目指しており(これまで11座登頂)、主力隊
      員も11座、10座、9座と登頂していて、非常に強力な隊であるが、我が隊も互角以上に工作を引き受
      け、ここもエース倉橋がトップに立つ。チムニーは入り口が左に振られそうな体勢となり、チムニー
      そのものも狭く足場にも乏しいので荷が重いと苦しい所だ。抜け出ると雪稜を100mほどで背後に岩
     場がひかえるC2地(6650m)に着く。一帯は傾斜した雪壁でキャンプサイトは雪壁を切り開いて作
     ることになるが、古いテントの残骸が多数散らばり、新たな設営場所の確保に苦労させられる。
   (特に2000年の韓国隊の超大量の残置物が惨状を大きくしている)。古い固定ロープを多く利用した
   こともあって、1日でC2まで届いてしまったのは予想以上の成果とも言えたが、後でこれが乱暴な
   下り方をしたパキスタン人がロープ切断によって転落死する悲劇を生む一因ともなった。
   BCまで帰る。
  14  今日からC3へのルート工作段階に入る。C1に上がり、翌日C2へ。
  16  C3へのルート工作出発をうかがうが、地吹雪のため上部に出られず停滞。
  17  天候回復せずBCへ 。
 19  これも南東稜を目指す英米主体の大人数の国際隊が入山して来たが挨拶一つなし。
  21  RCへ(ここでの宿泊はこれが最後で、以後はデポ地としてのみ利用)。
  22  C1を飛ばして一気にC2へ。
  23  またしても悪天候で停滞。
  24  天候回復せず、またもやBCへ。13日頃まで概ね好天続きだった天候だが、それ以後、晴天1日・
   悪天5〜7日の繰り返しといった悪天候基調に変わってしまっている。
  28  再度C1へ上がり、翌日C2へ。
  30  天候小康状態となり、ついに上部へ向かう(TMAも国際隊も先頭に立つ気なく逆にC1からBCへ
   下りてしまう始末)。C2背後の黒い岩場(ブラック・ピラミッドと呼ばれる長い岩場の最下部)を
   左に回り込み、しばし岩稜の左手をたどった後、スラブを登って岩稜上の小コルに出る。急な岩稜を
   直上後、再び稜の左手をからみ、雪壁に入っていく。雪壁は胸のつかえるような傾斜となり、その先
   は垂直の岩場となる。20mほどのワイヤー梯子が残置されているこの岩場を越えると新たな稜上に飛
   び出す。1ピッチ、ガラ場混じりの緩斜面をたどると次の岩場となる。取っ付きの凹角状をトップ
   倉橋が越えた辺り(高度約7000m)で時間切れとなり、C2に戻る。
 7/1 8日ぶりに晴天で明けた中、今日こそはC3到達をと再度上部を目指す。昨日の到達点から再び
   ガラ場状、岩稜をつないで行くと岩溝状の狭い雪壁に入る。直上していくとやや緩傾斜な稜の頭に出
   る。さしものブラック・ピラミッドもついに足下になった。岩搭の右を通り抜けて雪壁となった斜面
   を登るが、視界不良時の下降を考えるとここも固定ロープは欠かせないし、ラッセルもきつい箇所で
   ある。途中、古いテントの残骸が基盤の氷と共に押し出されてきている横を通り抜けるが、風が出て
   きて視界も悪化してきた。C3まで余すところ高度差100m程度だが、やむなく行動を打ち切って
   C2へ。
  2  久しぶりの終日快晴の中、BCに下る。しかし悪天候基調はこの後も変わらず、BCで停滞を強いら
   れる日々が多かった。
 7 倉橋、矢野、清野の工作隊はBCを発つが、風強まりRCから引き返す。
 9 再度出発。C1に上がるが、翌日はまたしても悪天でBCへ追い返される。
  12〜13  改めてBCからC2に上がるが、続く2日間は悪天で停滞を強いられる。
  16  まずまずの晴天に恵まれてC2を出発。半月前の到達点から更に数ピッチ雪壁にルートを延ばして
   いく。最後に若干急な短い雪壁を越えると雪原の端に飛び出し、ついにC3地点(7300m)に到達。
   6月11日に早々とC2に達して以来、実に35日間を要した。ここまでRC上から切れ目なくロープ
   を固定してきたことになる(一部残置利用を含めて総延長は約3000m)。
   C1、C2と比べると格段に   設営条件の良いここに早速テントを張り、そのまま宿泊。
  17  朝は晴れで明けた。この天気を利用して一気にC4到達を目指す。初め傾斜の緩い雪壁で固定ロープ
   の必要もないし、張るのも現実的ではないが、降雪中や直後は雪質が不安定で雪崩の危険性もある
   し、何よりもルートを見失う恐れがある。担ぎ上げた旗竿をC4までの間に新たに50本ほど設置し
   た。南東稜の肩(ショルダー)に出る直下はセラックやクレバスが走り、ここにはロープを固定し
   た。急速に天候が崩れてきた中、緩やかで小広い雪稜状を呈する肩の上に出てキャンプ適地を物色。
   東壁側に張り出た小雪庇の陰にC4(最終キャンプ・7900m)を設営した後、標識旗に導かれてC3
   まで下った後、さらにC2まで下る。次の日6日ぶりにBCへ。
  18〜20  この間に他の隊員も全員C3宿泊は果たすが、強風のためC4には到達できず。
   一方、唯一C1〜C2間を共同でルート工作した日に倉橋のリードぶりに敬意を抱くと共に、後の
   工作は労山隊に任せておけばいいや、と「果報は寝て待て」を決め込んでいた感のあるTMA隊は、
   我が隊が苦労の末ついにC4までのルート工作を完了させたと知るや、突如行動を起こして我が隊と
   入れ違いにC4に入った。
 21 この日、TMA隊は頂上攻撃を行なったが、結果はボトルネックは突破したものの天候悪化で登頂は
   断念。彼らとは終始友好的に交流していたが、それとは別なドライなやり方であった。
  25  23日ぶりの終日快晴の中、1次隊は頂上攻撃目指してC1へ。登山活動も丸2カ月になろうとして
   おり、後から入山してきたTMAも国際隊もすでに登頂を断念して数日以内の下山を決定している
   中、我々もこれが最後のアタック・チャンスと不退転の決意であった。
  26  C2へ。だがこの夜から再び烈風吹きすさぶ悪天候が始まってしまった。
  27〜8/1 烈風治まらず6日7晩の停滞を強いられた末、ついにK2断念を決定。後で振り返れば、
   3日ほど経過したところでいったんBCに下り、改めてアタックに出ていればその後訪れた好天を
   利用できたのであるが、神ならぬ身、それまでのあまりにも持続的な悪天候にとらわれてしまったの
   だった。
  2 まだ風は強いが荷下げのためC3へ。
  3  皮肉にもこの頃から天候回復の兆しが出てきた中、 C3の荷を撤収してC2へ。残念だがC4の
   テントを撤収する余力はなかった。2次隊も荷下げのためC3往復。
  4  C2、C1の荷をRCおよびBCまで荷下げ。下部はかなり風が弱まってきた。
  5  RCのデポ品を回収し、荷下げ完了。翌日から気象の傾向はガラリと変わって好天基調となる。
  7  休暇の尽きた倉橋はBCを離れる(12日帰国)。他の5人はK2で得た高度順応を利用して残された
   期間(有効期間は1週間ほど)にアルパイン・スタイルでG2に向かうことを決定し、移動準備。
  9  K2BC撤収。途中でHAJ隊の「8月5日に4人全員がG1に登頂したが下山時に1人が行動不能
   に陥り、BCまで下ろすのに(今のぺースが維持できたとしても)後4〜5日はかかってしまう」と
   の悲痛な救助依頼の手紙を持った同隊キッチンボーイのユーノスと出会う。ポーター費軽減のため
   我が隊のG2BC地と定めていたシャーリーン(シャクリーン)まで3行程分を歩いて到着。
 10  我が隊はK2での酸素荷揚げなどのため3人の高所ポーター(HAP)を雇用していた(勤労意欲に
   乏しくあまり戦力にはならなかった)が、この時点で残っていた唯一のHAPフセインおよびユーノ
   ス(彼が救助活動に行けるよう気を利かしてプラブーツ、ピッケル、アイゼン、ハーネス、ソックス
   などを貸与した)に、要請はなかったが酸素3本も持たせてHAJ隊BCへ先行させる。隊員は荷を
   ほどき、登山と救助のどちらにも対応できるよう再準備。
  11  万一救助が今日中に終わった場合に備え、隊員は一応G2登山の可能性を念頭に置いて出発。
   一方、フセイン(昨日運んだ酸素のうち1本を携行)とHAJ隊コックのアスカリ(我が隊がユーノ
   スに貸した装備を転借)は南ガッシャーブルム氷河まで下りてきていたHAJ隊に合流し、救助活動
   に加わるが、クレバスが縦横に錯綜する同氷河上の救助活動はこの手勢ではやはり極めて困難でわず
   かしか進めず。本来のBC地に着いて、帰ってきたフセインらから明日までに救助を終えるのは難し
   いだろうと聞かされた我が隊は今夜も氷河上に幕営するHAJ隊との交信で、G2登山は諦めて救助
   活動に専念することを伝える(もともとギリギリの日程しかない上に、激務が予想される救助活動を
   終えた翌日からすぐG2に向かうのは困難であろう。であればその残りの日数ではG2登頂の可能性
   は到底見込めないという判断が導き出される)。8月6日以来続いていた好天も下り坂模様なのが
   気にかかる。
  12  アスカリから登攀装備を返却させた近藤以下5人と再度のフセインが救助に向かう(重篤を伝えられ
   る事故者への酸素大量投与をとの当方からの提案に対しては不必要とのことであったが、今日中に
   BCまで下ろし切れる保証もないので、独自の判断で酸素1本を携行する)。HAJ隊と合流する
   が、救助人数が3倍になった効果は絶大で、底も見えない超ディープな恐ろしいクレバス群やいつ崩
   れるとも知れぬスノーブリッジも何のその、K2で働けなかった汚名挽回とばかりに張り切るフセイ
   ンの強引な突っ込みも相俟って、この日一気にBCまで事故者を搬出できたのは予想以上の成果であ
   った。夜半ついに天候が崩れ、何と降雨となったが、まさに滑り込みセーフといった感じであった。
  13  雨はミゾレに変わり、さらに湿雪が降り続く。ヘリコプターを待ち望むHAJ隊にとっては辛い天候
   だが、自然には逆らえない。せめて悪天候が始まる前に救助活動が完了できた幸運を喜ぶべきなのか
   も知れない。我々も救助活動の疲れを癒す休養日と決め込み、停滞とする。
  15  14日もやむことのなかった降雪はようやく夜明け前にやむが、曇り空で、待ち望むヘリコプターは飛
   来しそうもない。我が隊が提供した酸素も2日間の停滞で使い切ったので、追加借り受けのため同行
   するHAJ隊隊員と共に、シャーリーンに戻る。
 16  再び好天基調となり、快晴の中をヘリコプターがHAJ隊BCに飛来して事故者を搬送していった。
   このように我々は行動の最終段階でHAJ隊の遭難救助に従事することになり、事故者を救出できた
   訳だが、その陰にはいくつもの偶然的要素が重なり、HAJ隊にとって不幸中の幸いで助けることが
   できた。先ず、我が隊がG2の登山許可も得ていたこと。そしてちょうど彼らの事故発生直後頃に
   我々がG2への移動を開始したこと。我々がK2用に準備した酸素を多数持っていたこと。HAJ隊
   自身だけでは後まだ何日もかかるどころか、BCまで下ろすのも不可能だった可能性がある救助活動
   が我々が駆けつけた結果、8月12日中に完了したこと。まさにその夜から始まった切れ目のない降雨
   〜降雪が2日3晩続いたことを勘案すると、もしその日のうちにBCまで下ろせなかった場合は、
   同隊はフライのないテントに4人が鮨詰め状態でそれらの日夜を過ごさざるを得ず、事故者はもちろ
   ん疲労が蓄積していた他のメンバーの生命も脅かされたであろう。しかもそれを切り抜けたとしても
   大量降雪は危険なクレバス帯をヒドン化させ、救出活動をより危険に満ちたものにしただろうことは
   想像に難くない。
    救助を求めている登山者がいたら、何をおいても駆けつけるのは当然の責務で、我々の活動は
   過分・過大に評価されるべきものでもないが、たまたま居合わせて救助に貢献でき、事故者の命を
   助けられたのは本当によかったという思いである。
  19  17、18日は最終撤収準備を行なったが、ポーターが予約より1日早く到着したので、この朝下山開
   始。帰路のキャラバンはガンドコロ峠越えのルートを採った。シャーリーンからアリ・キャンプへは
   コンコルディアまで戻らず、近道ルートを探し出してヴィニュ氷河に入る。初め右岸側をたどり、途
   中から左岸側に移る。やがて左岸に岩の堆積帯が見えてくるとそこがアリ・キャンプである。氷河は
   少し先で2分し、本流は左 奥へカーブしてチョゴリザ方面に向かい、右には支流が分かれる。ルート
   は氷河から離れてアリ・キャンプに上がり、さらに堆積帯の中の踏み跡を上流へたどると今夜の宿泊
   地、ムニエル・キャンプ(アリ・ハイキャンプ)である。
  20  未明に出発。キャンプからすぐヴィニュ氷河支流上に下りて、平らな氷河上を対岸に渡るとそこから
   ガンドコロ峠への雪壁が始まる。傾斜はさほど急ではなく、例年ならシーズン中はフーシェ谷のガイ
   ドたちによって固定ロープやクレバスに橋が設けられ毎日見回りもされるのだが、登山隊もトレッカ
   ーも激減した上に天候も殊のほか悪かった今年は何の手も加えられていないので、登山隊自身で危険
   箇所にロープを張った(概ね回収)。幸い今年は大きなクレバスもなかった。峠(約5700m)は広々
   とした雪原の鞍部で、K2、ブロード・ピーク、ガッシャーブルム連山などが一望できる素晴らしい展
   望台である。峠からフーシェ側への下り出しは通常なら落石の危険が高いガレと岩場の続く急斜面だ
   が、今回は数日前の大雪が解け残っていて、雪壁と化していたので300mほどの固定ロープを設置
   回収)。長いガレ場を下り切って右岸サイドモレーン上の踏み跡をたどると「ハイ・キャンプ」。
    更に下って、やがてモレーンから右手に下りてお花畑まで下ると間もなくガンドコロ氷河右岸の
   ヒュースパン・キャンプ地である。ここも例年なら大型テントの簡易レストランの出店群が並ぶのだ
   が、今年は皆無であった。更に下流へ、氷河を左岸に渡り、踏み跡伝いに下り続ける。途中、大崩壊
   地の中のザレ壁の長いトラバースがあり、更に支流の徒渉を経てやがて管理小屋の建つシャイチョー
   である。ムニエル・キャンプからここまで1日で来たが長い行程であった。
  21  シャイチョーからは3時間ほど川沿いに下ると最上流の村、フーシェに着く。ポーター賃の支払いを
   済ませ、この日はここのロッジに泊まる。
  22  ジープでスカルドに向かう。途中、カンデ村を通過する所は村内を流れる川に架かる橋が先年の出水
   で流されたままになっており(間もなく新設工事が始まる模様)、この区間はポーターによる荷運び
   が必要で、対岸からは別のジープに乗り換えてスカルドに出た。
  24  チャーター・バスでベシャムまで。
 25  イスラマバードに帰着。
  26  未だモンスーンが明け切らぬようで連日のように降雨がある中、隊荷整理に従事。
  28  清野出国(カラチ、ダッカ、カトマンズ経由で9月1日に帰国)。 
  9/1 矢野、川原出国(翌日帰国)。
  4  最後の近藤、池田も出国しカラチ、ダッカ、カトマンズ(残務整理)経由で11日に帰国。

 《天気の概況》
 キャラバン中はゴロ2で降雪に遭ったが、早目にやんでくれたのでコンコルディアへの移動には支障が
なかった。BC入り以後、6月13日頃までは好天基調で推移し、速やかにC2までルートが延ばせたが、
以後は5〜7日に1日程度しか好天が訪れず、上部は常に強風が吹きまくって行動に支障をきたした。

 7月に入ってからは悪天候はいっそう強まり、終日晴れたのは2日と25日の2日間だけという有り様
だった。7月末日頃からは徐々に回復の兆しが見られたが、それもBCやC1での話で、C2以上では回復
は遅れた。
 8月2日頃からは上部も風が弱まり始め、6日からは快晴が続く天候となった。10日頃から徐々に雲量が
増え始めたが、HAJ隊の救助が完了した12日までは辛うじて崩れずに持ってくれた。丸2日間の降雪の
後、16日以後は再び好天が続いた。

 《特記事項》
 南東稜には我が隊の他にチベット隊、英米主体の国際隊が入ったが、このうちチベット隊とは友好的に
交流したが、遅れて来た国際隊は、その時点で我々がC2までルートを拓いていたにも関わらず挨拶ひとつ
なく、無断で我々の固定ロープを使い、あまつさえ我々が苦労して整地したC1キャンプ地にまで自分らの
テントを張るという礼儀知らずな振る舞いに及んだ。ヘンリー・トッド隊長に強硬抗議したところ逆恨み
されて、BC中に「日本隊はクレージーだ」と言いふらされてしまった。その上「C2までの固定ロープも
我々(国際隊)のものだからお前らが使うなら金を払え」と若いスペイン人登攀隊長が言い出す始末。
 実は「トッド氏が事前にルート工作についての協議のためにラサに来た」とチベット隊から聞いていた
が、察するに国際隊はロープをチベット隊が張ったものと思い込んでいたのかも知れない。その後、我が隊
の連絡官およびチベット隊の調停もあったが、すべて彼らの思い違いであることが白日の下となり、彼らが
全面的に非を認めて詫を入れることで解決したが、一気にBC中に国際隊が日本隊に謝ったという話題が広
まる事態となった。先方が日本語を話せない状況下では不得意な英語で全てのやりとりをせねばならない
場合が多く、しばしば泣き寝入りしてしまう例が多いのではないかと思うが、言うべきことを主張した上で
のこの結果には満足感を抱いている。

 今シーズンのK2では2人の死者が出た。最初は7月13日、南々東稜スペイン隊の高所ポーターで、未明
にルート取り付きを登高中に雪崩に襲われたもの。2つ目は同22日、チベットとの合同隊の連絡官兼任の
パキスタン側隊員、イクバル氏でチベット隊が登頂断念した後、共に下山中にC2〜C1間で古い固定
ロープに衝撃を与えるような下降をした (しかも2本設置してあったのにより古いほうの1本だけに頼っ
ていたという)結果のロープ切断で、RC付近まで高度差1000mを転落したもの。この他にも氷河上で複数
の古い遺体と遭遇するなど、K2もまたチョモランマに劣らず死の匂いに満ちている。

 南々東稜にも3隊が入っていた。『ヒマラヤ・アルパインスタイル』には南東稜よりも安全なルートと
紹介されているが、我々の入山中少なくとも4〜5回はK2上部から大雪崩が発生、うち一つは南東稜ボト
ルネックが崩壊したものだったが、いずれも南々東稜をかすめたり稜そのものを掃いたりした上でブロー
ド・ピーク側にまで達する大きなものであった(その一つが前記高所ポーターの死亡につながった)。
「南々東稜は安全」と言い切るには多分に問題があると思われる。

 1997年に群馬岳連や日本山岳会東海支部隊がネパール・シェルパを大量に連れていった結果、パキスタン
高所ポーターの雇用機会を奪ったとして、その後シェルパを使うことは禁止となっていたようだが、それが
緩和されたのか今期は少なくとも3隊で計5人のシェルパが働いていたことも報告したい(隊員として登録
してはあるのだろうが)。
 なお、実行できなかったG2登山の許可(2002年度の許可料は4500ドル=60万円)を03年度に移すべく
パキスタン当局に要請しており、1回目の書面回答は不認可だったが、たまたま11月半ばにパキスタンで
アジア山岳連盟総会が開催されると聞いたのでそれに出席する労山代表団(守屋益男会長と河野文樹理事)
に急遽望月清照国際部長にも加わってもらい、直接折衝してもらった結果、再検討するとの回答を得ている
(12月20日現在回答なし)。                      (記:近藤和美)
(このレポートは速報です。近く写真も加えてより詳しいものに改稿する予定です)