(1) | オーバーユース問題 |
オーバーユース(過剰利用)は、登山活動がそれぞれの山域の受け入れ能力の範囲内であれば生じない。たとえば、湿原やお花畑は受け入れ能力が低く、森林は受け入れ能力が高い。したがって、オーバーユースは単に登山者の多い少ないだけの問題ではない。労山は、多くの国民に登山の機会と楽しみを広げるために、受け入れ能力が低いところには、木道・トイレ・山小屋などの整備を要求してきた。しかし、90年代の爆発的な登山ブーム、いわゆる「百名山」ブームの到来により、産業としての登山ビジネスが確立してオーバーユースは全国の著名山岳地帯へ広がっていった。 |
(2) | 山のし尿処理問題 |
その結果、山のトイレ問題が生じてきた。早池峰や三嶺では、し尿の担ぎ下ろしが行なわれている。そして、担ぎ下ろしながらの携帯トイレの普及活動は、労山が目指す「山岳自然に与える負荷を最小限にとどめられるような登山の方法(ローインパクト)」として注目にあたいする行動でもある。逆に、トイレの有料制も登山者の中に広く受け入れられてきている。尾瀬自然保護財団によれば、昨年の尾瀬の有料トイレの収益は1千万円だったとして、1人平均30円と算出している。目標は、1人平均100円であったという。今後は、利用に見合う整備の一部負担を登山者が負うべきかどうかを検討する段階になってきている。 |
(3) | 集団登山問題 |
集団登山の現状は、国民に広く登山の機会をつくり、登山を普及するという姿勢をもつリーダーのもとではオーバーユースは生じにくい。
ある山小屋経営者は「100人の個人が山小屋に来た場合、トイレは余り汚れないが、100人の集団の場合はおおむね汚れる。と言っても、リーダーによって全く異なる」と語る。解明の糸口は、ここにあるようだ。したがって、集団登山を安易に否定するのでなく、集団登山のリーダーや登山者個々への自然保護教育が十分になされていれば、人数を自己規制した限定的集団登山にハイキング層を取り込んで登山を楽しみながら自然保護を普及することは可能であろう。今、労山などの登山団体に求められているものは、集団登山を登山者教育の場にすることが求められているのではないだろうか。 |
(4) | ローインパクト |
ローインパクト(自然にやさしい登山技術)に関しては、労山が続けてきた25年間のクリーンハイク運動により、山からごみを一掃するという世論がほぼ形成されてきた。今後は、福岡県連盟・久留米の「チョボラ」(ちょっとしたボランティア)活動のように地域社会や他の山岳団体とクリーンハイクなどを共同で取り組むという方向が必要であろう。 |
(5) | 登山道の踏み荒らし問題 |
登山道での問題は登山者が登山道を踏み外すことなどにある。登山者にもかなりの責任があるが、登山道が人と自然との関係をみて、合理的につくられていない実情もある。丹沢・大倉尾根は天をつくような階段になっているが、金冷しの分岐を鍋割山荘方面に向かうとほっとするような登山道になる。東北の吾妻連峰・天元台コースは、リフトを降りると百名山の西吾妻山まで延々と幅2メートル以上もある学校の廊下のような木道が続いている。奈良の大台ケ原も空中回廊と化しており、石川県の白山のひとつの登山道では登山道自体が石畳化しているのが現状である。 |
(6) | 国・自治体による条件整備は |
しかし、東京・奥多摩の御前山では東京都が登山者の意見を聞き、協力を得て登山道の整備をしたときは、資材も地元の材木を使用するなどかなりの成果があった。したがって、環境省が推進している「日本百名山登山歩道整備事業」(現在23事業を公表)を登山者の立場からローインパクトな登山道に要求することは必要なことではないだろうか。この事業の実施母体は各都県府県なので地方連盟が具体的にかかわることができる。
また政策の整合性に疑問を生じるものもある。東北の朝日連峰では、日本百名山登山歩道整備事業を公表しながら、入山規制を前提にする世界自然遺産登録を考えているなど、役所のご都合主義が生じている。
このような状況のもとでは、登山道整備についてローインパクトの立場から行政に対して要求をするだけでなく、ボランティアの範囲に留まるにしても具体的にかかわって監視していく必要があるのではないだろうか。 |
(7) | 登山者の欲求の限界と観光登山。 |
行政はともすると、登山道や各種の施設の収容能力を大きく見積もってつくり、大量に入山すると、また広げるという悪循環を繰り返そうとする。それは"入山者を増やす"という意図から発想するのでそうなってしまう。結果的に「観光登山」の呼び水となっている。旧来の登山道を知っている人にとっては、余りにも人工的な工事でショックを受けるだろうが、以前を知らない人にとっては快適に思える。中高年者の登山ブームは、利便性追求の登山環境の中で行なわれているという一面も見逃してはならない。人間にやさしくと自然にやさしくは本来一致すべきものである。 |