埼玉県と山梨県の県境である奥秩父主脈も、雲取山からは埼玉県と東京都の境界に変わる。また通常この雲取山を越えると、尾根の呼び名も長沢背稜になるようだ。そして酉谷山などをいただくこの尾根は、かつては静かないわゆる通好みの「渋い山」だったという。今でもこの尾根をたどると、日帰りで雲取山をめざすのは無理で、それがかろうじてかつての名残をとどめさせているようだ。
ところで、どこの会でも1人や2人は藪山ファンがいると思う。どこから仕入れてくるのか、まず他の会員には全く見当もつかない超マイナーな山やコースに詳しいのが特徴だ。
数年前の晩秋、そんなメンバーのひとりSさんの提案で、私も長沢背稜の七跳山から大平山を経て秩父側の細久保という集落に下りるコースを歩いたことがある。昭文社の古いエアリアマップでは薄い黒の破線が続いているが、実際に行ってみると、かすかな踏跡と時折目に入る潅木の枝に巻きつけられた赤テープが、ここは前人未踏ではないと教えてくれるだけだ。沢登りでもヤブ漕ぎはつき物だが、所詮は全行程の一部にすぎないからなとぼやきつつ、2万5千図とコンパスそしてヘッドランプを頼りに、やっとの思いで集落にたどり着いたのはもう真っ暗になってからだった。当初、S氏はタワ尾根という長沢背稜の枝尾根から取り付くプランを出していたのだが、この時ばかりはやめてよかったとしみじみ思ったものである。
結局、初日はノーマルに鴨沢から登って雲取山荘で幕営。翌日にヤブ漕ぎを満喫したのだが、途中の酉谷山直下で避難小屋を建築中だったのが、どうも心に引っ掛かっていた。そこで今年の4月、行ってみることにした。
ところが、出発があまりにものんびりだったため、東日原に到着したのがはや夕方4時過ぎ。しかも空はどんよりと曇り、今にも降り出しそうだ。これはまずいとヨコスズ尾根をかけ上るが、三ツドツケの直下にある一杯水避難小屋にたどり着くのが時間的にやっとだった。
この小屋は1980年に東京都が設置。赤茶色の木造平屋で、屋根は同系色のトタンで切妻の形状である。東に向いたドアから入ると、真っ直ぐ奥まで伸びた土間が通路として左手の細い板間と右手の広い板間を区切っている。広さは10人程度の利用がせいぜいだろう。なお右手の板間は入口付近がやはり土間として切られており、ストーブが設置されている。煙突もある。トイレもあるが、いったん小屋の外に出て隣の扉から入らなければならない。水場は登山道を東側に5分ほど離れたところにある。
中には男女2人連れが1組、ほか単独の男性が2人先着していた。私が入っても詰めあうほどではなく、細い板間の奥を使わせてもらう。
翌日はのんびりと酉谷山をめざし、小川谷林道へと下った。途中、七跳山の山頂であの時のルートを探ってみようとしたが、はっきりしない。今でもここばかりは静かな、いわゆる篤志家向きの「渋い山」であるようだ。 |