労山ヤングクライマーズフォーラムは、去る5月17日に、日本を代表するソロクライマー山野井泰史氏を迎えて、東京・千代田区の日本教育会館で行われた。昨年10月のギャチュンカンからの生還後、長期入院を余儀なくされていた山野井氏の講演は、退院後初ということもあり、若者を中心に160人という多数の参加者をみた。前半は、山野井氏によるスライド上映と講演、その後、参加者を交えてのディスカッションという2部構成で行われた。開会の挨拶をした川嶋高志・青年学生委員長は「夢を持つこと、夢をかなえる努力をする素晴らしさを感じ取って欲しい」と語り、山野井氏の講演が始まった。
「ギャチュンカンの報告を聞いてもらえるといいんですが、あんまりいい写真がなくて」と、山野井氏は山に登り始めた小学5年生の頃からの軌跡を語りだした。
山野井氏は、小学校5年生から山歩きをはじめたという。ハイキングをしながら考えていたことと言えば「何歳の時にどの山を登るか」だけ、という少年だった。岩登りを教えてくれる人は周りに誰もいなかったので、1人で石垣に通いつめ、高校生の頃には、谷川岳の岩場をロープなしで登るようになっていた。その頃の自室にあったのは、カンチェンジュンガのポスターと雑誌「岩と雪」だけ。本当に山一色の学生時代を送っていたという。
高校を卒業してすぐ、ヨセミテへ単身向かう。クライミングの聖地とも言うべきエルキャピタンで過ごしたクライミング三昧の生活は「楽しかった」。このエルキャピタンでは"壁の中での生活技術"を学んだという。ヨセミテには4度渡り、コズミック・デブリ、ラーキングフィアー単独第3登などを果たし、さらにヨーロッパアルプスのマッターホルン北壁を単独で登頂する。この頃から"もっと冒険的な山"への憧れが強まってきたと、山野井氏は当時を振り返る。
冒険的なクライミングを
そうして23歳の時に踏み込んでいった世界は、何日かかるかわからず、遭難したことすら知られることのない、僻地での単独登攀。「ベースを出発する時は、これ以上ないくらい不安で緊張した」というバフィン島トール西壁は、"冒険的なクライミング"を具現化した挑戦だった。これを成功させて、日本の登山界に名前が知られるようになった。翌年には、冬期のパタゴニア・フィッツロイに単独で向かう。40日以上の壮絶な孤独を味わうことになったフィッツロイでは、悪天候の中、ベースでじっと待ちつづける日々に「精神的な面を鍛えられた」という。結局89年も敗退したが、90年に単独初登攀を成功させた。
それまでビッグウォールや、僻地での単独登攀が多かった山野井氏だが、ヒマラヤ高所の初挑戦は、登山隊に参加してのブロードピークだった。極地法によるブロードピークでは、高所での技術、高山病の知識を学んだという。僻地での単独登攀の経験は積んでいても、8000メートルの高所ではまったく違った知識や経験が必要であり、それを学べるという意味では、大きな登山隊に参加することは意義があったと山野井氏はいう。
ヒマラヤの高峰にルートを求める
ブロードピークで、高所でのアルパインスタイルによる登攀に確信をもてた山野井氏は、これ以降、アマダブラム西壁冬期単独初登攀、単独でのチョー・オユー南西壁新ルート開拓などを成し遂げることになる。スライドには、ベースキャンプでのシーンや、高所順化のためのトレーニング風景が映し出される。山野井氏の高所順化のスタイルは感覚重視で「パルスオキシメーターは信用しない」と言い切る。それより、尿の色を見たり、走ったりして(息の切れ方によって)順化の進み具合を判断するという。夜半に出発するスライドを映しながら「高所での行動開始は夜間が多いのは、落石や雪崩のリスクを減らすため」だが、さらに「夜に行動して昼間に休むと寝袋が小さくてすむ」とも。また8000メートルを超える高所に長時間滞在するのはたいへん危険で、一時的に視力を失ったり、「誰かがそばにいるような感覚」にとらわれたりすることもあるという。もちろん身体の消耗は激しく、チョー・オユーでは、わずか3日間の登攀で10キロ以上の体重減だったそうだ。
成功と失敗の間にあるもの
ここで"失敗した山"マカルー西壁とマナスル北西壁のスライドが続く。山野井氏は敗退した理由として「登攀に集中できなかった」ことを挙げた。
マカルー西壁では、テレビの取材クルーが同行しており、「気にしているつもりはなかったのだが、結果的に集中することができなかった」と分析する。マナスル北西壁では、このルートが未登であることから出た「野心」と、せっかくここまできたんだし「お金がもったいない」という考えが、判断を誤らせた遠因ではないかという。両ルートとも「よくない失敗だった」と山野井氏は回想した。
ピラミダルな山に
美しいラインを引きたい
2000年に南南東稜無酸素単独登頂を果たしたK2は、美しい形に憧れを抱いていた山だった。天気悪化の兆候があったので、軽量化に努め、とにかく急いでいた印象が強い。山頂は天気がよく、中国側がよく見えた。そこから見える標高は低いが美しい形の山に、いつかは行ってみたいと思ったという。
スライドはギャチュンカンへのトレーニングとして行った、アメリカの風景に移る。高所順化の初期段階として、4000メートル付近でのフリークライミングやハイキングを繰り返す。チベットに入ってからは本格的な高所順化のため、7000メートル前後の山を何本か登り、ギャチュンカンに備えたという。
そしてギャチュンカンへ
ギャチュンカンは、ベースキャンプから取付までが遠く、アルパインスタイルには不利な山である。2002年9月5日、雲が少しかかってはいたが、問題はないだろうと判断し、妙子夫人と2人で出発した。6日、7日と順調に進むが、いやらしいミックス壁が続き「下降には苦労するだろうな」と感じながらの登攀だったという。8日、悪天候に捕まりながらも、山野井氏だけ北壁登頂を遂げる。
しかし、悪天候の中の下降は困難を極め、雪崩に何度も襲われながらのビバークを強いられた。雪崩によって視力が失われてもなお「諦められず」素手で壁をさぐり、懸垂下降のためのハーケンを打ったという。苦闘の末に氷河に降り立ったが、ベースまでの道のりは遠く「妙子は死んでもおかしくない」と思い、もし自分だけが生き残ったとしても「納得できるような気がした」という。
病院に入院した当時、山野井氏は、十分やったから、もう山はやめてもいいと思ったという。しかし、1カ月もすると衝動みたいなものが込み上げてきて、登りたくなってしまった。「以前のようには登れないかもしれないけれど、ゆっくり回復して、小さな山からでもやっていきたいと思う」と、いまの心境を語り、140枚に及ぶスライド上映を締めくくった。
圧倒的な量の経験と、確実なステップを踏んで培われた技術。それらに裏打ちされた輝かしい記録の数々は、運やまぐれではないのだと、聞く者の心に響いてくる。
参加者との懇談の中で「来年のいま頃、どこかに登っていると思う」と答えた山野井氏の今後に注目していきたい。
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