網附森(つなつけもり)の標高は1643メートル。剣山三嶺山塊の西端に位置する。登りきって標識を目にするまで、どこが頂上かわからない、これといって特徴のない山である。四国の山を「冗漫で変化に乏しい」とするなら、その決定版といえる。しかし、頂上からの眺めはすばらしく、天狗塚、三嶺、白髪山、剣山など、この山域の主要なピークが一望できる。かつては薮漕ぎの好きな者しか近寄らないマニアックな山であったが、矢筈峠からの登山道が整備され、出だしのブナを交えた樹林をたいした苦労もなく抜けると、さわやかな風が吹き抜ける笹原が頂上まで続くハイキングコースになった。
高知県勤労者山岳連盟が一般の登山者を対象に22年間続けている「市民登山学校」の実習に、スタッフとして参加させてもらい、梅雨間近の6月初めの日曜日、標高1250メートルの矢筈峠から綱附森に登った。
マイクロバスは笹川に沿って走る。新緑と水流が美しいが、道幅が狭いので窓外に目をやるのが怖い。明賀の集落から林道は尾根上の九十九折れになり、ぐんぐん標高を稼いでヘアピンカーブを10回ほどまわり込むと矢筈峠に着いた。別名「アリラン峠」。戦後、林道工事に従事していた韓国の人たちが、故国の峠に似ているところからそう呼んだとのこと。峠の向こうは秘境・祖谷(いや)である。
峠のやや東にある綱附森登山口でバスを降りる。高知市内からここまで約2時間。矢筈峠からの綱附森は剣山山系では石立山とともに最も笹薮のひどい縦走路として、以前はかなりのアルバイトを強いられた。重荷に耐え、うつむいて汗が足元に黒いしみを作るのを見ながら、ただひたすら頂上をめざしたが、それは昔の話。今日のザックは小さい。
雨上がりで展望はよくないが、ガスに煙る樹林の小道をたどって歩き始める。昨日、台風が通過した名残で風が時々木々をゆすりながら吹き抜けていく。嵐に耐えたのはトサノミツバツツジであろうか。ピンクの花が頭上に満開である。ザックが重いからと、下をむいて通過しては気づかない光景。足元にはギンリョウソウがひっそりと咲いて、それもまた楽しい。
読図のトレーニングも兼ねて歩くが、周囲が見えないうえに同じような小ピークがくり返し現れて、少々現在地がわかりにくい。登山学校の生徒そっちのけでスタッフ間の議論が続く。
安野尾山(やすのおやま)を過ぎたあたりで樹林を抜けると、ガスが切れてきて歓声があがる。標高1370メートルのコルは東の躄峠(いざり)や西の矢筈峠と同じように昔から土佐と阿波の往還に利用されたのだろう。コルを横切る踏み跡はわりとしっかりしているが、いまもだれかが利用しているのだろうか。
標高1500メートルを過ぎるとコメツツジが点在する笹原の中を歩くようになり、眼前に饅頭型のピークが近づいてくる。登山口を出発してから約2時間半で綱附森の頂上に着いた。風は弱まり陽もさしてきたが、三嶺や剣山はガスの中。北方にあるはずの孤高のピラミッド・天狗塚も残念ながら見えない。しかし、南側には雲間からの陽を浴びて山々が幾重にも太平洋に向かって連なり、四国の山の奥深さを実感させてくれる。我々のほかにはだれもいない静かな山頂だった。
かつて徳島と高知の県境にあるピークに登るには、高知市内からだとほぼ1泊2日を要したが、林道の整備と自家用車の利用で、いまではほとんどが日帰り可能になった。年齢や体力の有無にかかわらず、誰でも手軽に頂上を踏めるようになったのはうれしい。しかし、長い山岳ドライブのはてに、ちょこっと歩いてピークを往復するばかりでは、一時の百名山ハンティングのように登山の下痢状態になってしまう。たまには下から時間をかけて歩き、自分なりにじっくり消化できる山にも行きたい。その方が、標高は低くても、広がりと奥の深さがある、高知の山の登り方であるような気がする。
石油に依存する社会の排泄物であるアスファルトの捨て場として、「放射熱により周辺植物に影響が出る」と懸念する声も無視して、山腹をどこまでも伸びていく自動車道路。自然保護を活動の柱のひとつに挙げながら、公共の交通機関がないので、ほとんどの山行で自動車を利用せざるを得ない地方の労山。国際山岳連盟のマイヤー氏は、日本・韓国・台湾の山岳保護などについての個人的印象として「地球的規模の警鐘には強い関心が寄せられているが、個人的なライフスタイルは激烈なほどのエネルギー消費型になっている。山に向かうのに車の利用があたりまえになっている。この矛盾については熱心に論議されていないらしい」と指摘する。
過疎化と高齢化の問題に直面し、林業振興と山岳観光の両面に期待する中山間自治体にとって、林道等の建設と整備が不可欠なのはわかるけれども、何の疑問も持たずに安易にそれを利用して山に登ってよいものかとも思う。ふるさとの活性化を願うがゆえの開発と環境保全との両立は、地方では登山者にとっても避けて通れない課題であると考えさせられた山行であった。
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