日本百名山に入っていなくて本当によかった。この山のコマクサを見るたびにつくづくそう思う。北アルプス蓮華岳のことである。蓮華岳では平坦ともいってよいほど、広くなだらかな稜線に、それこそ無数のコマクサが咲いているが、もしも百名山に入っていたとしたら、他の百名山の山のようにたくさんの人たちが押しかけ、コマクサを踏み荒らしてすっかりだめにしてしまっていたに違いない。そのくらいこの山のコマクサの大群落は素晴らしいものである。百名山からはずれていて本当によかったと思う。
蓮華岳は北アルプスの中ほど、針ノ木岳の東にある山で、大町付近からは有明山とともにたいへん目立つ存在となっている。名前からもかつて信仰の山としてよく登られただろうと推測できるが、現在では社会科の地図帳にも乗らないくらいの無名の山になってしまった。しかしコマクサにとってはそれが幸いしているのだから、皮肉なものである。
蓮華岳へは立山黒部アルペンルートの扇沢から南にルートをとり、針ノ木大雪渓をさかのぼって針ノ木峠をめざす。峠に上がってから西にコースを取れば、針ノ木岳となり、東にコースを取れば、蓮華岳に達することができる。
蓮華岳への登りは比較的ゆるやかで、しばらく登るとコマクサが一面に咲く、だだっ広い稜線に出る。まさに見渡す限りコマクサといった感じで、本当に驚いてしまう。おそらくわが国で最大のコマクサ群落であろう。私は日本の高山はかなり広く歩いているが、これに勝る群落を見たことがない。
あるとき、コマクサの群落の中に何人もの男たちが入り込んでいたので、何だろうと思って近寄ってみたら、NHKの撮影班であった。これだけの群落となると、やはり紹介しようという気になるらしい。しかし、あまり有名にならないほうがこの山にとってはよさそうだ。
さて蓮華岳でコマクサの大群落ができたのはどうしてなのだろうか。
答えは簡単で、地表面をつくる岩がたいへん割れやすく、コマクサの生育に適した砂礫地が広い範囲にわたって生じたからである。岩は風化してボロボロになった安山岩で、偏平に割れているものが多い。色は大半が赤茶けている。ところによっては白っぽい部分もあるが、その岩は流紋岩または流紋岩質の溶結凝灰岩で、これもたいへん割れやすい。
安山岩や流紋岩は本来は火山をつくる岩である。しかし、蓮華岳付近には、現在、火山は存在しない。いったい蓮華岳になぜ火山岩が分布するのだろうか。
蓮華岳の山体をつくる安山岩や流紋岩質の溶結凝灰岩の成因については、信州大学の地質学者・原山智さんが綿密な調査を行って明らかにしている。それによれば、およそ200万年ほど前、爺ケ岳南方に中心をもつ巨大なカルデラ火山ができ、そこから噴出した安山岩や流紋岩質の溶結凝灰岩が、蓮華岳や針ノ木岳付近にまで広がったのだという。恐るべき広さである。その後の侵食で、その巨大な火山は開析されてしまい、扇沢などの谷が入って、爺ケ岳や針ノ木岳などいくつものピークに分かれてしまった。したがって、爺ケ岳や蓮華岳のピークは火山そのものではありえない。いくら火山岩からできていても火山そのものではないのである。
写真に示したように、砂礫地の一部にはほとんど植物を欠いている部分がかなり広く現れる。私はこうした砂礫地が、3000年くらい前の寒冷期に新しい砂礫が生産されることによって生じ、そのために植物が乏しいのだろうと予測した。そのために4回ほどこの山を訪ね、調査を重ねたが、結局、論文にすることはできなかった。針ノ木岳小屋のご主人百瀬堯さんにはいろいろ便宜を計っていただいたのに、論文ができず、今でも心苦しく思っている。
こいずみ・たけえい
1948年長野県生まれ。東京学芸大学教授。専攻は自然地理学、地生態学、第四紀学。著書に『日本の山はなぜ美しい』(古今書院)『山の自然学入門』(編著、古今書院)『山の自然学』(岩波新書)『登山と自然の科学Q&A』(共著、大月書店)『登山の誕生』(中公新書)『山の自然教室』(岩波ジュニア新書)など。「山の自然学クラブ」で主任講師を務める。
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